- 築城主
東北の雄 伊達政宗が徳川家康の許可を得て慶長5年(1600年)着工した。合せて町民のためにと城下町も整えた。
以来、約270年間伊達氏の居城だった。明治初年の廃城令までは殆どの城郭は残っていた。
- 名称
政宗は城を「五城楼」と名ずけた。仙台城または青葉城址は一般的な呼称、現在の正式名称は、青葉城跡として国に登録している
青葉城とは雅称として優美で風雅風流なものと親しみが込められた名称。
- 立地
標高144mの緑深い杜の青葉山、そのふもとには天然の堀となる川幅のある広瀬川が曲流している
城の南手には深い「竜の口渓谷」があって断崖絶壁となっていた、特に東手は清水の舞台のように崖の上に迫り出すように作られた
懸け造りがあって眼下に城下町を睥睨(へいげい)して町内を絶えず監視できる、又敵の侵入に鉄砲を上から打つ事ができるので強固な要塞となっている。
江戸時代当時から難攻不落の名城として知られていた。
- 歴史
本丸は明治初年、廃藩置県により取り壊された。二の丸は明治15年(1882年)に火災で焼失、大手門も昭和20年(1945年)に
仙台空襲で焼失、現在はわずかに残る城壁の他、隅櫓(すみやぐら)が再建されている。
よって往時を偲ぶものとしては石垣土塁が残っているだけで、当時の城としては一切ない。 築城当時の間取りは二階建ての天守台
(天守閣はもともとない)に大広間を中心に約九十を超す部屋があった、約2万坪の城郭の連郭式平山城の様式とした。
- 構造
初代政宗により着工始めたのは本丸、西の丸。二代目忠宗は二の丸、三の丸(東の丸)。
本丸の中心には大広間があり天皇家将軍家を向入れて接待する為の御成門、藩主が坐する上段の間のさらに上々段の間がしつらえてあった。
いずれも使われることがなかった。
- 現状
城跡一帯は国の史跡に指定されていて、青葉山公園となっている展望台からは眺望よく仙台市街地中心部が望める、当時の城下町は
大町、立町、国分町あたりが先ず開けていて割烹、料亭、花街などができていて賑やかであったとのこと。
- 宮城の工芸
日本遺産 『伊達が育んだ「伊達」な文化』 堤焼乾馬窯 紹介はここをクリック
|